教員紹介:星川啓慈

1.【宗教学を学ぶようになった動機】
2.【ウィトゲンシュタインとの出会い】
3.【現在の関心ごと】
4.【宗教学を学びたい人へのアドバイス】


1.【宗教学を学ぶようになった動機】
聞き手:星川先生が10代、もしくは20代前後に宗教学、宗教哲学を志された動機、もしくは背景などをお伺いさせてもらってよろしいでしょうか。

星川先生(以下、星川):宗教については、中学時代からその方面の本を読んで興味をおぼえた。大学に入ってからは、現象学(宗教現象学ではなく、哲学の現象学)をやろうと思っていたが、仏教の本を読んでもとても面白かった。でも、親鸞の『教行信証』は、大学2年で読んだが、まったくわからなかったなぁ。

しかし、僕が宗教学をやろうと思った決定的な理由は、井門富二夫先生という僕の恩師の授業、つまり大学の学部1年生の時の「現代人の宗教」という授業が大変に面白かったことである。

仏教学にも興味があったけれども、サンスクリットなどの言語の習得は難しい。当時、筑波大学には、三枝充悳先生や川崎信定先生といった語学の達人である先生方がいらっしゃった。なんとなく「語学のできない人間は仏教学ができない」というような厳しい雰囲気があった。サンスクリット語を3か月程度勉強したが、難しくて断念した。仏教学を専攻するには、それ以外にも、パーリ語・チベット語・漢文・英語・仏語・独語…と学ばなければならない。気の遠くなるような話である。諦めのいい性格なので、「自分には無理だ」とあっさり諦めた。賢明な判断であった(笑)。


聞き手:井門先生の「現代人の宗教」星川先生に大きな影響があったとのことですが、具体的には「現代人の宗教」という授業の中で、何について関心をお持ちになられたのでしょうか。

星川:創価学会などの新宗教の組織論かな。それと同時に、毎日新聞社から『宗教を現代に問う』という5冊本のシリーズが出ていたが、これもとても面白かった。井門先生の大学院の授業でいろいろな日本の宗教を見に行ったのも、非常に勉強になった。今は組織論とか具体的な実証的研究には、それほど興味はわかないけれども…。

ただ、東京大学の島薗進先生の勧めで、TM(超越瞑想)の参与調査をした。ひょっとしたら、日本で最初のTMの参与調査かもしれない。それで、1993年に「日本における “Transcendental Meditation” 運動――現実的効果の獲得からユートピアの建設に向けて」という論文を書いた。


聞き手:星川先生の最初の論文ですね。

星川:最初の論文はシュッツとフッサールに関する論文だね(「A・シュッツの〈自然的態度の構成的現象学〉――E・フッサールとの乖離」1985年)。今でもこの時の考え方が、すべての基礎となっている。君たちの場合にも、最初に書いた論文がある程度、将来のものの見方・考え方を予言していると思う。若いうちの勉強は大事だよ。同時に、若いうちの勉強は、ある程度将来を決めるから、恐いよ。


聞き手:なぜこの問いをはじめにお伺いしたかというと、井門先生の学問スタンスというのは組織論、より大きくいえば社会学的な考え方をおもちであったと思います。しかしながら、星川先生が現象学、後には哲学・宗教哲学という、学恩を授けていただいた師匠の井門先生とは別の方向に行かれていますが。

星川:井門先生は、僕に実証的な研究をさせたかったようだ。でも、井門先生の授業というのは、非常に理論的なものであり、哲学の話もけっこうあった。それで、シュッツ、バーガー、ルックマンに興味を持って、それ以来、僕の関心は「リアリティと言語」の問題にある。

これは30年以上たった今でもまったく変わらない。この問題意識は、『統合失調症と宗教――医療心理学とウィトゲンシュタイン』(医療心理学の松田真理子氏との共著、創元社、2010年)、および、25年の研究生活の集大成である僕の主著『宗教と〈他〉なるもの――言語とリアリティをめぐる考察』(春秋社、2011年)にも貫かれている。この本は非常に評判がいいから、ぜひ読んでほしい。『宗教研究』や『宗教と社会』にも書評が掲載された。

社会学についても、実証的研究はしていないが、もちろん、ウェーバー、デュルケム、パーソンズなどの重要な古典は、ほとんど読んだ。今となっては、すべて忘れてしまったが(笑)。

ついでに、嫌がられるのを承知で自慢話をすると、「言語哲学からみた統合失調症(1)(2)」という連続論文も、「多文化間精神医学会」という学会の審査にパスした。どうしてこういうことを言うかといえば、僕の研究の一貫性を言いたいからだ。「言語とリアリティ」というテーマは一貫している、ということ。研究者というのは、やはりどこかで研究の一貫性が大切なような気がする。

TMの実証的研究、シュッツを中心とする現象学的社会学、宗教言語の論理学的分析、宗教体験論、宗教言語ゲーム論、宗教間対話論、ウィトゲンシュタイン研究…。何をやっても続かなかったが(苦笑)、このテーマ(宗教の言語とリアリティ)は一貫している。もっとも新しい、脳科学をあつかった論文「脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し―― 心脳相互作用論と体験重視の宗教哲学との場合」(『大正大学研究紀要』第29輯、2012年)においてもだ。

しかし、井門先生からは、「お前はいろんな方面に手を出しすぎる。1つのことに集中しなさい!」とお叱りを受けたこともある。歳をとって、先生のおっしゃったことの意味が分かってきたので、僕が指導している学生・大学院生には、そういうふうに指導している(笑)。君たちも、1つのことに集中したほうが良いよ! そして、それが、集中する価値のあるものだといいね。もしくは、将来の研究に繋がっていくものであるといいね。


聞き手:学問的な関心は今おおまかにお話ししていただいた点かなと思うのですが、そこに星川先生の個人的な関心というのは何か加わってこないのでしょうか。たとえば、誰々の死に、そういった宗教的、もしくは実存的な体験をお持ちとか、そういったものとは別個にお考えなのでしょうか。自分の問題として学問上の関心がつながっているのか、もしくは、星川先生にとって学問上の関心は学問上の関心というように分けて考えていらっしゃるのかどうかということです。

星川:それは微妙。人間は、生きている限り言葉を話すし、リアリティを感じながら生きている。言語とリアリティの関係を勉強するということは、自分の生きることそのものの勉強である。だから、自分が生きるということと僕の学問とは相即の関係にある。

しかしながら、キリスト教などの一神教的思考にはなかなかついていけない。比較的よくわかるのは仏教だ。それも、「空」とか「縁起」とか、哲学的な側面に興味をひかれる。しかし正直なところ、僕には、こうした哲学的思想がどうして「慈悲」と結びついてくるのか、つまり、空・縁起と慈悲との論理的な関係、これが判然としない。誰か説明してくれると、ありがたい。

また、恥ずかしいから言わないが、現在はかなり明確な死生観を持っている。けれども、これが僕の学問に直接反映することはない。「人はいかに生きるべきか」みたいなことについては、一切/一行たりとも書いたことはない。今後も、そういうことについて書くつもりはまったくない。その理由は、自分にストレートに返ってくるから、恥ずかしくて書けないから(笑)。だから、宗教を研究しても対象になるのは、言語とかリアリティとか認識とか、そういうようなところ。しかしそれでも、いろんな宗教を知ってみると、人間の営みとして、非常に心をひかれる。

ところで、宇宙葬を希望している僕だが、最近、親父のお墓を建立した。春秋社の『春秋』(2012年4月号)の巻頭に、「わが家のお墓ができるまで」というエッセイがある。ここに、僕の死生観をふくめた宗教的なことが登場するよ。